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私の履歴書

「物好き」と「手作り」が支えた40代からのマイコン入門

といっても日経に連載されるようなものではありません。以下は、CQ出版社から
出ている月刊誌「インターフェイス」の1989年5月号に同誌の創刊15周年記
念企画「読者の体験記(個人史)でつづる−マイコンの15年と技術者の15年と」
に応募し掲載していただいた私の記事です。同誌編集部に了承戴いたうえここにア
ップします。なお、当時の原稿は残っていないので、印刷されたものから再度打ち
込みましたが、10年の月日が流れたこともあり、多少、原文を加筆訂正しました。

最初はラジオ少年

私は1961年、繊維学部繊維化学科と言うところを卒業しました。当時、電子計算機
は並みの大学にあるような代物ではありませんでした。中学生時代、ハムが解禁に
なり、並4から発展して短波コンバータを組み立てベリカードを集めたりしていま
した。「初歩のラジオ」から始まって、「無線と実験」から「CQ ham radio」を
読むようになり、将来はこんな方面に進めたらいいなと、バクゼンと考えていたの
ですが、現実に受験を考えるようになると、「電気工学科は入りにくいし、やたら
難しい数学ばかりで、”ハンダごてを振り回して回路を作って実験する”ようなこ
とは、あまりやらないらしい」ことがわかりました。
正直なところ、国語は自信がありましたが数学は人並み程度だったので、方向転換
して理工系では一番数学の少なそうな化学に進んだ訳です。卒業してメーカに就職
しました。在学中から道楽(オーケストラ、山歩き)に忙しく、電気いじりともい
つとはなく疎遠になりました。それでも、仕事で付き合った[材料試験機][分光
光度計][ベータ線厚さ計]などの中身は真空管で、回路図を見ながらテスタであ
れこれ当たっては、設備部門の電気屋サンより腕が良く?、けっこう役にはたちま
したが。

コンピュータがやってきた

30歳ごろから、TQC推進担当をおおせつかりました。このころ、NHK教育テ
レビで森口先生のフォートラン講座が始まり、関連の本も出てきました。フォート
ランで統計解析の初歩を始めたのですが、コーディング紙に書いて本社電算室に送
ると10日ほどして「文法エラーです」と返ってくるようなあんばいでした。赤の
他人のパンチャに入力してもらうので、とにかく計算機入門はお習字でした。その
おかげか、普通の技術レポートまでその調子の字を書いて「どうしてゼロに斜め棒
を入れたり、Dにチョンを付けるんだ!」と上司にどやされました。
工場電算室に最初に入ったトランジスタ世代のNEC#1240はアセンブラだけなので、
「事務処理専門」といわれ、そう信じていましたが、統計につきものの縦・横の足
し算や2乗の足し算にいい加減くたびれ「これぐらい出来るんじゃないか」と電算
室に相談したのが、思えばこの道に踏み込むキッカケでした。最初はお互い手探り
で打ち合わせしていましたが、やがて
  *データの数は200まで。最大4桁。
  *まずデータの足し算をし、つぎに最大と最少を求め...
  *グラフを書くというのは、ここからここまでワクの線を書き..
と日本語で「やって欲しいこと」を私が書き、それをアセンブラに書いてもらい、
という二人三脚方式になりました。そのうち見よう見まねで私もマニュアル片手に、
アセンブラを書き出していました。1970年ごろのことです。
#1240は紙テープベースですから電源オフで何も残らず、休みの日など自分でマシン
を起動していろいろやっていても、別に文句も言われませんでした。むしろ、「普
通は敬遠するのに触りにくるとは感心にヤツ」ぐらいの認識で奨励していただいた
と記憶します。統計処理の場合、中間結果を見て処理の方法を変更するやり方が不
可欠なので、データを提出して結果をもらうのではなく、依頼者が直接コンソール
に触れるようにもしてもらいました。今から考えると、まさにパーソナルな使い方
をしていた訳です。やがて電算室のマシンは更新され、ディスクベースになった代
わりに部外者立ち入り厳禁となり、アセンブラによるそれまでの蓄積も無意味にな
り、この辺の仕事は過去のものとなりました。

計装・FAの世界へ

あまり成果もないまま、十年程のQC推進担当から離れ「一体なにをしてきたんだ
ろう」「このまま終わるのはイヤだ」と悩む日々が続きました。やっと出した結論
は「計装・自動化の技術者として生きる」。手始めに計量士(一般/環境)の国家
資格を取得しました。得意?の電子の世界も「0-10Vの電圧信号です」から「TTLレ
ベルのDIOです」と、中学の電気クラブの実力ではお手上げになってきていたので、
本屋で昔馴染みのCQ誌の隣にあったインターフェイス誌を試しに買い、片っ端か
ら資料請求しましたが、届いたカタログの8割は一体何に使うのかさえ理解出来ま
せんでした。これより前、TK-80が発表され興味は持ちましたが、趣味にも仕事にも
使えるようには思えませんでした。やがてPC8001が一台工場に入り、時間を作って
は(仕事を放り出して?)N-BASICの世界に浸るようになりました。1980年の秋のこ
とです。
この道に明るい人を見つけ、ポイントを聞きました。トラ技とインターフェイス誌
を毎月買い、秋葉原の裏通りを軒並みのぞいて回り、小遣いをはたいて工具をそろ
えICゲームのキットを組み立て、エレクトロニクスショーなど関連の展示会にも
通いました。単行本も買い込みました。少し物心がつくと、メーカの技術資料を入
手して読みふけりました。けれども、どうやれば、マイコンと現実のスイッチやモ
ータやセンサがつながるのか、なかなか自信が持てませんでした。

INS8073と出会う

1982年2月号のトラ技にオンチップBasicのINS8073を搭載したボードマイコンの記事
が出て「これならオレにも何とかなりそうだ」と思い、アドテック社の講習会に自
費で出ました。午前中ハード、午後ソフト(昼休みBasic入門のビデオ)、最後にR
OMに焼いたBasicでステッピングモータをカタカタ回して出来上がりというもので
した。講師がジーンズ姿だったのが印象的でした。内容はだいたい知っていること
でしたが、現物にさわって、初めて自信らしいものが付きました。「仕事としてや
りたいので、設備部門に転属させて欲しい」と3年ごしで上申を続けていたのがや
っと通り,1982年8月に現在の自社設備の保全・設計を担当する部署に移動。45歳
になっていました。
工作室の隅に家から持ってきた子供机を置き、作業場所を確保しました。仕事場に
あった半田ごては100Wのだけ。細かい工具はほとんど私物でした。デシマルS
Wの読み込みとか、7セグの表示とか、細かい単位ごとにバラックを組んで動作を
納得しました。表芸である秤の面倒を見ながら、電気工事士をとるなど電気屋さん
の修行もしました。そのころPC(プログラマブル・コントローラ いわゆるシー
ケンサ)が出まわり始め、外注した盤に付いていた打ち込み器とマニュアルから出
発して、PCを使った自社設計第一号の盤を作りました。PCをやっているうちに、
いつのまにか普通の盤の図面も読めるようになりました。(最初はSW1で正転、
SW2で逆転もできなかった)
移動してから半年めには、8073を使ったボードマイコンで現場の××特性を制御す
る試験機を組み立て、動かし始めました。それまで設備部門に入っていた機械工具
や部品の問屋さんからは電子部品が入手出来ないので、もがいた末「社内設備用の
この手の部品は、現金で買出しに行くのが一番」と悟りました。TTL−N6=5
個、470Ω1袋などとレポート用紙何枚にも書き出して秋葉原に出かけてゆくわ
けです。あとで伝票の山を持ち込んで経理に呆れられました。

現場で走るものを作る

段ボールの空き箱を粘着テープで組み合わせて電源やボード類を仕込み、前面にカ
ッタ・ナイフで穴をあけメータやスイッチや表示灯を取り付けました。実機一台が
すべてだったので、ソフトをいじるのもハードを変更するのもすべて現場で、段取
り替えや休日にといった具合でした。やがて「PCやマイコンの応用が社内技術で
出来、役に立つ」ことが少しずつ理解され始め、道具も元卓球台にあふれるぐらい
揃ってきました。PCにかぎっては、生え抜きの電気担当も自分で設計をやるよう
になってきました。仕事は「社外の見積もりなら××円、私が内作すれば×円で出
来ますよ」と売り込んで受注するわけです。いざ稟議が通り、部品が集まってくる
と「オレの腕で本当に出来るのか」と不安一杯が常でしたが。
全体の構成を決め、回路図を書き、I/O基板を設計し手ハンダで組み立て、ター
ミナルをつないでソフトを打ち込み、自分で穴加工した筐体に入れました。念のた
め付け加えると、「現場でちゃんと走る仕掛けを作る」ためには、マイコン屋の腕
もさることながら、固有技術が不可欠です。最終的には、一番のベテラン作業者と
同等以上の技術が必要です。24時間操業ですから、時間を問わずときには深夜に
も呼ばれることがありますが、ICがどうとかより、固有技術面でアドバイスして
始末することが多いのです。それと、「現場で何が起こるか」を事前につかみ、そ
れをシュミレートする仕掛けを作って、充分に机の上で検証しておくことです。

そしてForthコンパイラ

オンチップのBasicでは、速度などに限界を感じ、同じバスに乗るZ80ボードを考え
ました。ソフトについて思案していたとき、1984年10月からインターフェイス誌に
リギー社の国産Forth「Fifth」の連載が始まり、取り寄せたマニュアルを夜中まで
繰り返して読みました。BasicからForthへがどうもしっくりこなくて(つまりGOTO
による制御構造を、構造化言語ではどう書くか)悩んだ末、開発者の片桐氏に質問
状を書き、親切な返事を戴きました。心を決めて、CP/M ワードマスター Fifth 
ICE をまとめて発注したときには、もう後には引けぬと必死でした。いろいろ
ありましたが、数ヶ月後には無事現場で走り始め、「狭き門をどうやら通り抜けた
か」とひそかに思いました。最近の作としては、新設ラインの原料調合部分を担当
し、PC数台とパソコンを光ケーブルで結ぶシステムを作りました。自分で手をだ
したのは、図面書きとソフトだけですが、約5ケ月かかりました。パソコン側のソ
フトはFifthから発展した日本語プログラム言語Mindです。私の最初のプログラム体
験からしても、日本語で書けば通るのはありがたいことです(まったくの自然言語
ということではもちろんありませんが)。課の事務処理なども全部これで書いてい
ます。

生産技術ノススメ

自動化を進めるためにマイコン技術者を社内に増やせと言われています。固有技術
の出来るひとから候補者を五人集め、やらせてみれば一人はものになるかとおもい
ますが、あたってみると「将来この課の柱になる人だから」「××製品の開発に欠
かせない」などと断られます。さりとて、製造会社の設備部門にマイコンの腕のあ
る新人を入れて固有技術を教え込むのも大変な話です。私のような「自発的な物好
きの頑張り」を期待すべきでしょうか。外部へ出すという考え方もあるでしょうが、
製造技術のノウハウをすべて明らかにしたり、改善も全部お任せになりそうです。
設備がものを作る時代です。機械を使いこなす職人の腕が会社の宝、設備屋は与え
られたものの面倒を見れば良いだけではないでしょう。製品の開発と同様に生産技
術も自社で持ってなくちゃ、が私の持論です。

これから

マイコンボードもPCの機能ユニットも各種出揃って来ました。自社設備を設計す
る立場からは、基板設計・アートワークから始める必要は無くなったようです。ト
ラ技の広告の細かいリストを必死になって探すことも少なくなりました。けれども、
いま次の人を育てろといわれれば、一度は「すべて手作り」を体験してもらうでし
ょう。今後私の作るシステムは
  *出来るだけPC(の機能ユニット)で構成
  *計算/表示/ファイルといった機能はパソコン(FA用でない普通のでも場合
  によっては可)
となると思います。何か考えるとき、以前なら「この仕事はどのICで出来るか。
そのハンドラは?基本回路は?」でしたが、このごろは「どのユニットを付ければ
よいか。そのコマンドは?接続法は?」となってきました。最近トラ技やI/F誌
で「胸ときめかす」ような記事にあまり出くわさないように感じます。専門化して
いったマイコン技術に私が追い付けなくなったのでしょうか。最初にこの世界に飛
び込んだときのようなガムシャラな情熱が薄れたのかもしれません。それとも「既
製品の組み合わせ」だけで片付く範囲が広がったと考えるべきでしょうか。ともあ
れ、工場のおもなラインでは私の作ったPC/マイコンシステムが、がんばってい
ます。
あと数年で第一次定年を迎えます。